「少女」と猪
〜1〜
ぽつり。
始まりの記憶は、草々の蒸れた匂いだった。
朝靄の中を、木々の長い影が伸びるその下で、「彼」は震えながら蹲っていた。
真っ白な世界は透明にどこまでも透き通ってゆき、だんだんと輪郭を失って行く。
その向こうで、ぼんやりとした虚無の影が、ゆっくりと鎌首をもたげていた。
ぽつり。
ぽつり。
体に叩きつけられる水の一滴一滴が、容赦なく命の熱を奪っていく。虚無が、「彼」を飲み込もうとゆっくり近づいてくる。
「彼」は立ち上がろうと体を持ち上げ、そのままぐらりとバランスを崩して膝を折った。
もう、一歩も歩くことは出来なかった。
おかあさんから、はぐれちゃったの?
その時、声が聞こえた。
舌っ足らずで儚げな、それでいて育む強さと優しさを内に秘めた声。「彼」はその声に導かれるように目を開けた。
人間の少女によく似ていた。が、「彼」はすぐに彼女は人間でない――いや、この世の生き物でない事を本能的に感じた。
腰にまで届く栗色の髪を揺らし、両手を広げてこちらへ近づいてくるそれの足取りは、歩くことを覚えたばかりのようにたどたどしい。目は優しく微笑んでいながらも口元は時々苦痛に歪む。肩から伸びるほっそりした腕は、今にも折れてしまいそうに見えた。
それの体を包むものは、体毛ではない。それでいて、人が身に纏う服とも違っていた。敢えて表現するなら、それはこちら側の世界とあちら側の世界のあまい。こちら側の世界の生き物には覗き見ることの敵わない、白い影。霞。
「少女」は、「彼」の前に立つとゆっくりと屈み込み、その両手に「彼」を包み込む。
わたしがあなたのおかあさんになってあげるね。
そして世界は光に溢れ――
〜2〜
ぱっ。と灯りの点る音に、彼は目を覚ました。
「ごめんね。起こしちゃった?」
声の主は、バツの悪そうな顔で彼を見た。両手には下着の山。紫の髪が僅かに濡れている。それで、彼は先ほどから雨音が響いていることに気が付いた。
彼女はばふっと下着を部屋の隅に置くと、ベッドの上に座り込んだ。
「あーあ。これもまた干し直しだ……」
「昼間は、なかなか干せないんだよねぇ」
言いながらタオルを手に取り、髪やパジャマから丁寧に水分を移して行く。
「いっそのことあんたが干してくれたらあたしは楽なんだけどさぁ」
期待を含んだ眼差しを向けられたので、彼はゴフッと小さく声を洩らしてうなだれる。それはボクには無理だ。申し訳ない。
「あっ。やだ。冗談よ。そんな悲しそうな顔しないでよ」
そう言って彼女は両手を振ると、
「ま、今週末は空いてるし、その時まで待てば良いか」
口元に指を充ててうんうんと頷き、立ち上がって電灯の紐に手を伸ばした。
「じゃあ、おやすみボタン。起こしちゃってごめんね」
再度謝る声とともに、再び辺りは闇に包まれる。その中で、雨音が一層強くなって行った。
彼は身を横たえ、ふと先ほどの夢を思い出す。
傍で寝息を立てはじめた女性。他の誰にも見せない、生のままの感情を彼にだけは打ち明けるこの女性は、紛れもなく彼の母であり、彼の命を救ってくれた女性だった。
けれど。
彼は遠いあの日の記憶を思い浮かべる。
あの時見た「少女」。彼女は――
〜3〜
木々の隙間から漏れる光の斜面が優しい、春の日だった。
彼はいつものように幼稚園の学舎(まなびや)の裏を歩く。そこはお気に入りの場所だった。
明るすぎず、暗すぎず程よい日陰。あの場所を思い出す、蒸れた草木の薫り。程よく流れる春の暖かな風そして園児達の元気な歌声。そんな幸せを五感で噛みしめつつ隘路を曲がると、見知らぬ先客がいた。
袖をゆったりと取った濃紺の纏い物、襟から伸びて胸元で映える白いネクタイ。屈んで嗚咽を堪えていた少女は、間違いなくこの幼稚園の生徒だった。
「ゴフッ」
黙っていることもできたが、盗み見のようで気分が良くない。そう思った彼は少女の邪魔をしないように、小さく吠えて立ち去ることにした――が、その動きは中途で止まった。
驚いた風でもなく、ただ無心に顔を上げて彼を見る少女。その栗色の髪は、腰までは届かない。その顔立ちは、あの人の面影よりも僅かに幼い――しかしそれは、紛れもなくあの時の少女だった。
お互いに見つめ合ったまま、数分もの時が流れた。少なくとも彼はそう感じた。やがて少女はゆっくりと顔を綻ばすと
「おともだちになろうよ」
と、その小さな唇を動かして言った。
〜4〜
彼女がいつまでも「少女」のままである理由に、自分が関係しているのだと考え始めたのはそれほど最近ではない。
無論、子供達の世話をするという職業も関係していただろう。彼女自身の性格もあっただろう。
だが、この歳になっても彼女にパートナーが出来ない理由。それはやっぱり自分が彼女の傍にいるからだ。
彼は、そう考えていた。
少女に母の役割を負わせれば、その少女の成長はそこで停滞してしまう。何かを育む代償として、少女自身が女になり、母となる機会はそこで閉ざされてしまう。
だから、いずれ彼女からは離れなければならなかった。
〜5〜
「どこかであったきがするの」
夕日に手を伸ばしながら、少女はそう言った。
ボクもだよ。そう伝えたくて彼は鼻を鳴らした。
「そうなんだ。いっしょだね」
起きあがって少女は笑う。その笑顔が嬉しくて、彼も自然と笑顔になった。
「ね、おうたをうたおう」
少女は母から何度も聴かされた唄を歌う。
彼もそれに合わせて鳴く。調子っぱずれな二人だけのセッションが、夕暮れの公園に響いた。
歌い終えるとじょうずだね。と少女は彼を撫でてくれた。
「おうちにきてくれないかな」
唐突に、少女はボタンに鼻をつきあわせるようにして言った。子供が親に何かをねだるのではなく、相手の意志を確認する瞳をしていた。
彼は非常に困惑した。
少女のことは大好きだった。けれど、彼には母が居るのだ。しかし彼は、そろそろ母から離れなければならないと感じている。
だから彼は身じろぎすらせず、じっと少女を見つめていた。
少女はじっと彼の眼を見ていたが、
「うん。やっぱりむりだよね」
と立ち上がりながら言った。
「またあそぼうね。ばいばい」
手を振り、駆けて行く。
後には、風だけが残った。
〜6〜
彼はただ、待っていた。
それは彼女が決めること。彼女が決めなければならないこと。
だから彼は、ただその時を待ち続ける。
〜Epilogue〜
再び季節は巡り、春が訪れる。
彼は、遊び疲れて木陰に眠る少女の周りを、所在なさげに歩いていた。
「やっぱり、こうなっちゃったわね」
変わりきった景色を眺め、彼の母である女性は深く息を吐く。傍の夫婦にも何かの感慨があるのだろう。その表情は決して明るくはない。
雑多な生命が混在した森から、整然とした美しさを誇る病院へ。その場所は、文字通り見知らぬ場所へと変わっていた。
彼の記憶にある地面の起伏も、木々の連なりも面影すら残っていない。ただ一本だけ残された木が無ければ、ここがあの場所だったなどとても信じられないだろう。
「……あたしも、変われるかな……」
「杏ちゃんなら、きっとできますよ」
向けられた無邪気な笑顔に、彼女は少しだけ痛みを含んだ表情を浮かべる。が、その表情は次の瞬間にはすぐに消えてしまう。
だから、気が付いたのはきっと彼だけだった。
「ねえ、もしあなたたちが良かったらだけど――」
続きは、春風に邪魔されて届かなかった。だけど、彼女が何を言ったかはその表情が語っていた。
笑顔で頷く夫婦。それを彼女は真っ正面から受け止め、万感の思いを込めて掠れた一声を発した。「おいで」と。
彼は走った。
駆けて来た小柄な女性を飛び越え、後ろで呆然としている女性の横を通り抜け、きっと今までで一番早く走る。そして――
ボタンは、杏の傍に静かに寄り添う。
変わり行く世界に、一抹の寂しさを覚えないのでは無かった。喪ってしまった景色に、未練を抱かないのでは無かった。
それでも、彼の居場所はずっと変わらずここにあったのだから。
そう、あの日から――
氷雨が降る中、傘を差した少女が小さな黒い塊に近づいて行く。
それが生き物であると知ると、少女は傘を投げ出し小さな命を固く、固く抱きしめていた。
◇ニュース◇
・関東圏在住の方。今日の気温は30℃を越えますので服装にはお気を付けて。あすは20℃らしいですが……。