高貴の少女の叡智と憐憫
川端康成先生が『名人』で用いた表現で、丸谷才一さんが『文章読本』で引用し、泥臭い悪趣味、単なる嘘っぱちだと非難したものです。
『文章読本』なんて、読んでもその万分の一も身になっているかあやしいものですが、そんな私でもこの指摘だけは分かるような気がします。
少女に高貴、叡智、憐憫と修飾語を3つも使ってごてごてに修飾した感じが、私も、如何にも押しつけがましいと思います。
と、高名な方の威を借りて文豪を非難したわけですが、私がこういう真似をやっていないかというと、絶対やっているでしょうね。一応気を遣っているつもりなんですが。
例えば、私は『虚夢』で、名雪のことを次のように表現したことがあります。
そう言って可愛くガッツポーズする少女は、上半身と下半身の調和が少しちぐはぐに見えた。そしてそれが、この娘の健全さを一層際立てているのだった。
と、引用したところで、あまりに表現が稚拙だったので「うわ、出すの恥ずかしい」とか思ったのですが、自分の後学の為にも、この文をメッタ切りにしたいと思います。
えーと、まず、この表現は思いっきり川端先生が、ある小説(名人ではない)で使った表現を盗みました。いや、盗んだというのも烏滸(うーろん)がましいくらいに下手くそな表現なんですが。
とりあえず「可愛く」という辺りでもうアウトですね。なにがどう可愛いんだか。ここら辺、「名雪だから可愛いにきまってんだろ!」という私の精神そのままでなんか痛々しいです。
次、少女という表現。実は、私あまり「少女」という表現を使いたくないんですよ。この言葉、もうニュースやらドキュメンタリーやらギャルゲーで使われすぎて、なんか素直に読めないし書けない。「少女」という言葉自体に、「若い女性」という意味以上の意味がある気がしてならないんです。しかも下世話な。
上半身と下半身の調和が少しちぐはぐに見えた。この表現が示す内容自体は個人的には良いと思っています。若い女の子を見るとき、そういう風に思う事ってありません? いや、春日の錯覚だろ! と言われると否定できないんですが。――が、この表現の耳障りの悪さは、高貴の少女の叡智と憐憫を遥かに上回っている気がする。
そしてそれが――以降は最悪。なんか段々情けなくなってきたのでここら辺で勘弁して下さい><
こんな文章を人様に読ませていたと思うと結構泣けてきます。そこで、訂正を入れて過去の自分と自分が描いた名雪の供養としつつ、今回の日記の締めにしたいと思います。
(訂正前)
「栞ちゃん」
「はい」
「ふぁいとっ、だよ」
そう言って可愛くガッツポーズする少女は、上半身と下半身の調和が少しちぐはぐに見えた。そしてそれが、この娘の健全さを一層際立てているのだった。
(訂正後)
「栞ちゃん」
「はい」
「ふぁいとっ、だよ」
そう言って、小さくガッツポーズする。元気いっぱいに微笑んだ彼女の躯はすらりとしていて、でもどこか均整がとれていなくて、でも、だからこそ健康なんだな、と栞は思った。
(『躯』の表記は虚夢での表記に合わせました)
少しはましになったかな?