がらくたマガジン

小説を書いたり、読んだり、勉強したりするブログです。執筆者紹介  (復)=復路鵜執筆  (K)=春日 姫宮執筆

平山夢明『暗くて静かでロックな娘(チャンネー)』集英社、2012

なんとなく原点に戻った感じで、今回から平山夢明に入りました。
久しいのですヤッフー!
全五回の掲載予定です。

『日本人じゃねえなら』
:どこへ行ってもお前は日本人なのかと尋ねられる日本人が一人、ある街に流れ着いた。酒を飲む店で出会ったじゅちーむという女、殴らせたら金をやるというチョーパン、そしておかっぱ頭のチハルや中学生のテツオと知り合う。子ども二人に世話してもらう、上げ膳据え膳の生活に乗っかりながら、ただ流れてゆく日々。日々。屑は屑なりに動き出し、テツオやチハルが各々の行動をする。やがて結び合っていくチョーパン、じゅちーむ。そして日本人。
 作品自体が、奇妙な話の結合物であるようにも、あるいはねじくれた螺旋体とでも言えそうな作品です。主人公がただぶらぶらと無為に活動している話です。背景や人物たちから、何かの先端めいたもの、もしくは兆候めいたものを幾つか読み取れそうで、奥底に何かが隠されているような気にさせます。日本人の世界観はあまりにも荒廃していて、さながら世界各地の屑町と屑村を流離ってきたような有り様でありますが、それが自虐的な意味で面白いと思います。己の下衆加減を理解している男の世界はこういうものかと感心する次第です。暴力はありますが怪奇ではなく、あまりにも遠い情景を、変えることのできなかったあの日を思い出すような無力さが、全体に満ち満ちています。それはまるで夢のようで、楽しくもありながら残虐でもあり、どろりとした質感の終盤が、読むものを辺獄から別の地獄へと引きずっていきます……力なく。一言でこれらを表現するならば《無為な無残さ》とでも言えましょうか。
 終盤、日本人がチョーパンに放ったセリフが印象的。人はいくらでも人でなしになれますし、いくらでもダメになっていけます。日本人がどこまで落ちていくのか、作品が叙情性を保ちながらも、どこまで崩れていくのかを観察するのは、死にかけた猿を観察するようで興味深くもあります。果たして、《生き恥》《無力》という究極的な自己破壊を抱えた人間は、いつまで生きられるのでしょうか。そもそも生きなければならないのかと思う所です。


『サブとタミエ』
:サブは蕎麦屋に勤め、タミエはコンビニでバイトをしている。二人は同棲しているのだが、最近、なんだか恋人同士としての仲に違和感ができはじめたとサブは思った。タミエの行動や態度に不審な点がある。そしてある夜、タミエは口にした……自分が他の男を好きになりそうだと。サブに体は捧げても、心は別の所にある、と。サブ、それを聞いてショックを受ける。そして衝撃のあまり、流されるままに行動する。
 しゃっくりをするように《暴力》や《破壊》が飛び出す氏の作品なのですが、今回は毛色がちょっと変わりました、良い意味で頭の悪い人たちが織りなす、恋愛――人情――心情のドラマが、下町を舞台に繰り広げられます。昼ドラのような、女と男の諍いに氏の方向性を加味してみた、クッキリの中にも僅かな苦味……昔ながらの一筋縄ではいかないお茶を飲んでいるような気分にしてくれます。後半の展開もさることながら、結末の二人の行動もなんだか好きで、ひょうきんな男女の行動にどこかしら感情移入してしまいます。ただ転から結へのつなぎ方にもう一味欲しいというか、もう少し細分化して欲しい部分はありました。
 どういうわけかこれを読んでいて『ブラック・ラグーン』を思い出したわけなんですが、これは多分ここに出ている人びとが抱えている《達観》のせいかなあと思ったりします。あの世界も人々の命の価値は低いんですが、《死》とか《暴力》に対する悟りみたいなものが開けている印象がありますし。
 これからも二人には頑張って欲しいものです。

暗くて静かでロックな娘

暗くて静かでロックな娘