がらくたマガジン

小説を書いたり、読んだり、勉強したりするブログです。執筆者紹介  (復)=復路鵜執筆  (K)=春日 姫宮執筆

平山夢明『暗くて静かでロックな娘(チャンネー)』集英社、2012

全五回予定の第四回です。
粛々と感想を進めましょう。粛々。


『人形の家』
:《俺》はパチンコをすると天カスになる男。だいたいお金がなくて、仕事はしていない。自分で仕事を探すと思いながら二年経っている。いつものように天カスで全部お金をなくしてパーになった俺は、公園のベンチで大自然に暖められながら人生の成功について思索していた。呼ばれた。振り向くと、あとで『はぁちゃん』と呼ぶことになる女の人がいた。俺がぼーっとしてると、枝が揺れる音がしたので振り向いた。女の人が首を吊っていた。死ぬ思いで助けだした俺と『はぁちゃん』はその後、同棲することになる。
 なんだかふわふわした文章で、主人公の俺が相当にだらしなくてほわーっとした性格をしているので、それを如実にあらわしているような気がします。はぁちゃんとの拙い同棲生活はなんだかよくわからないものによって繋ぎ止められながら、訳の分からない人びとがたまに混じってきます。でも往々にして主役はやっぱりひわーっとした俺で、その人生訓にかかってしまうと、強固だったものがなんだか柔らかくほわほわになってしまって馬鹿馬鹿しくもなってしまって、はぁちゃんの特異な性格やその他の人びとは、所詮その上でくるくる踊っているのだな、と思ってしまうのです。俺の心の芯がドロドロに溶けているので、相対的に活きるはずのその他のキャラたちが目立ったり、目立たなかったりと、なんだかよく分かりません。
 やや惜しいのは、起承転結を経て最後までたどり着きますが、結末にたどり着くのに急ぎ足で動きすぎたためか、あるいは主人公のへわーっとした性格が汚染しちゃったためか、最後のシーンがなんとなく物足りないなぁと感じてしまう点があります。あるいは一番大事なのがはぁちゃんの性格なのか、あるいは主人公のほわほわとした生活なのか、その所の区分が曖昧になってしまって、なんとなく生活が仕上がったけど、まぁ、いいのかなぁ……となってしまう所でしょうか。ビルの屋上近くに引っかかった風船みたいに、明らかに見えるのに取れないような、そんなもどかしさを内包した作品です。


『チョ松と散歩』
:子どものチョ松はいじめられていた。それを見かねていた子どもの俺はチョ松をいじめたりはせず、一緒にブランコに乗ったりしてやっていた……すると、チョ松は俺を親友だと思っていたらしい。ある日、製油工場にある《オバケ煙突》が爆破されて倒されるというニュースを聞きつけ、学校をサボってオバケ煙突の爆破を見に行こうと提案した。後が怖い俺は渋っていたけれど、朝方やってきたチョ松が地べたに土下座したり、哀しそうな顔をするので、仕方なく一緒に、森を抜けて爆破見物をすることになってしまった。
 子どもの頃のノスタルジーや、昔の戻らない出来事を語りかけるように、どこか遠い感じがします。すーっと鼻から胸に抜けていくような冷たい空気、心に染み入って、二度と戻らない事を、戻らない事が分かってから思い知らせる事実群。楽しさもつまらなさも怖さも、全部ひっくるめて子ども時代というのは去って行って、後に残されるのは大きくなってしまった、昔子どもだった人だけなのです。チョ松と森を散歩したり、いろんな事をした出来事はつまらなくもあり、面白くもあり、それは何やらの想い出として仕舞われたり、時折思い出したように開陳されていくのでしょうか。森からはじまる奇妙な世界に立ち入りながら、俺とチョ松は、色々な事を体験したに違いないのです。それは二度と取り戻せないものでありながら、その時間に永遠に刻まれていく事のように思われつつも、一つの雫のように何かしらを匂わす、そうした残り香があります。その場でそれを体験しているのに、遠くから見守っているような感じ。もしくは現在と未来からいっぺんに見通しているような感覚。
 奇怪な雰囲気だったり、子供同士の馬鹿馬鹿しい遊びだったり、《逃げゆくもの》や《消えてしまうもの》への、行き来する感慨を記した作品。雰囲気が好みです。


次回が最後ですが、次の感想は何にしましょうか。
むーん。悩み所です。

暗くて静かでロックな娘

暗くて静かでロックな娘