がらくたマガジン

小説を書いたり、読んだり、勉強したりするブログです。執筆者紹介  (復)=復路鵜執筆  (K)=春日 姫宮執筆

平山夢明『暗くて静かでロックな娘(チャンネー)』集英社、2012

全五回予定の最終回です。 ついにここまで来ました……!

次は短篇集か長編か、どちらにしましょうか。短編の方が区切りやすいので書くのに良いですが、長編も手をつけないと積まれるのですね。


『おばけの子』
:半年の物語だ。千春の周囲にはサエコとアキオがいた。弟のこーちゃんはずっと前に消えた。千春は学校に行っていない。千春は食事を食べさせてもらえない。千春は反省文を書かされながら母のサエコに蹴り上げられる。千春の顔にはおばけが住み着いていて、鏡を見る度に見返して怖くなる。八月に入ると、隠れて弟の絵を描いた事が原因で二人にラジオペンチで歯を抜かれた。そういう生活が、千春の全てだ。
 一体何のために書かれた作品なのか――これを読んだ後に、そう自戒するほど、自身に問いかけてしまうほど、訳がわからなくなる話。不愉快のトンネルに体ごと突っ込まれていますが、気づけば読み終わっていました。同時に、作品の存在意義などは、考えても意味がないことを知りました。それがある事が、既に意義なのです。不愉快、可哀想、憤怒……かくやの感情を刺激するために描かれたような、絵に描いたような完璧な虐待と生の行き着く先。不愉快にするためだけに作られたアートとでも言うべきか。ある意味でこの作品は現代アート会田誠を思い浮かべさせます。感情刺激逆方向清涼剤として張り巡らされた文章は的確に読者のツボをつき、的確に読者に本を細切れにするよう、怒らせるよう誘導してきます。読むだけで全身が燃え上がり、訳の分からない鬱屈と怒りが吹き上がります。
 特筆すべきは、千春ら当事者の行動だけでなく、周囲にいる者たちの曖昧な対応も、事態を特化させるのに十全の役割を果たしているということです。異変に気づいているのに動かない人びと。気づいていても面倒だから動かない人、気づかぬ事で何かを犠牲にしていることにも気づかず、ただ安穏と鼻毛を抜いている人びと。そうした彼らの、薄ぼんやりとして適当な悩みの底の底の底には、千春の文字そのまま地獄のような激苦が渦巻き……渦巻き……そして渦巻いているのです。今も世界のどこかで行われている、神様のように上の位階に位置する者からの暴力は、子どもや老人のように力のないものを羽交い締めにし、破壊しているに相違ないのです。
 黙祷。

『暗くて静かでロックな娘(チャンネー)』
:彼女と出会ったのは腐った町の腐った便所――俺は薄汚いバーで、盲目の美女ロザリンドと出会った。彼女と繋がる方法は、掌に字を描くことだけだ。彼女は俺に一目惚れし、ロザリンドの父親のファントムもそれを承知した。ともに暮らし、彼女たちのショーを見物する俺。美しくも楽しい日々だった。その先に何が起きようとも、その日々が匂わすものは花やかで華やかで、濃密だった。
 表題作です。薄い絵画同士を重ねあわせ、絵の向こう側、向こう側にあるものが何かを想像させる文章。奥底がスーッと見えたりもすれば、霞がかって目の前の絵しか見えない時もあります。文章が裸のまままろびでる時もあれば、何か匂いらしきものを押し出し、じわじわと読者を包み込むものをも感じさせます。不可思議でありながら、一瞬「あ、わかった」がやってくるような、薄っぽい霊感が時折やってきたは立ち去る、そんな作品です。最後の文章で欠けていた一つのピースが完成するような、かちりと音を立てて合わさっていくようなものがあります。読み進める度に透明になっていく文章群は魅力的で、何かしら神々しさを、子どもの神が屈託なく遊んでいる様子を思わせます。前作が暗陰とした作品でありましたので、余計に彼らの生に対する屈託のなさが、奇怪な彼女たちの奥底に潜む、一筋あふれる魅力のようなものが強調されるようです。
 美々しい作品と言っても良いのでしょう。暗鬱でも無念でもなく、それを乗り越えて中に掘り下げていき、見つけ出される綺麗さ。破壊された後の、残骸から醸しだされる美しさは、他に代えがたいものがあるのでしょう。

 ということで、この作品の書評は終了です。見られた皆様、お疲れ様でした!
 
 次回も一週間後に書きたいのですー。

 ちなみに現在は賞に出すため短編を書こうと四苦八苦していますが、簡単な物語スケッチが積み上がるだけで、起承転結の起がはじまりません……!

暗くて静かでロックな娘

暗くて静かでロックな娘