がらくたマガジン

小説を書いたり、読んだり、勉強したりするブログです。執筆者紹介  (復)=復路鵜執筆  (K)=春日 姫宮執筆

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』早川書房 2010

:無月の夜、ざらつく大気の中を歩く父と息子の二人。疾くに一線を越えていた世界は暗雲に包まれ言葉が意味を無くしていく。冬から逃げるために南へと歩き続ける彼らの眼に映るのは廃墟食人鬼そして荒廃荒廃荒廃。押し潰された大地の上を二人は互いを守りながら、よろめき、苦しみ、そして歩き続ける。

 最初に抱いた感想は、基底に広がる圧倒的な重低音のことでした。『無意味』の名を冠する重低音が世界や心象を埋める中で、どこかから切り取られてきたような二人は旅をし、考えながらも苦悶に苛まれていきます。九十五の轟音が耳を占める中でほんの微かに聞こえる、四か三かそれ以下の人間的な旋律は、対比される虚無的な広がりと対比され、かえって苦しみを際立たせる結果と成り得た気がします。確かな対話となり得るカギ括弧すら存在しない長大な文面や、事実と真実のように見える虚無がそれらを盛り立たせています。森、民家、道路、山、港、あらゆる場所が暗黒と畜生に塗れていく中で父と息子が辿った一筋の足跡は、埃の上を指でなぞるように綺麗さ/醜悪さの対立を明らかなものにします。微に入り細を穿ち尽くした描写は、しかしこの物語においては単に醜悪の度合いを深めるだけであり、良い物/受け入れやすいものもまた、その悲惨さを煽り立てるのみとなっています。つまるところ全てが終局に向かいつつあるのです。

 同様に眼に残ったのは、曖昧さ/明確さの境界線です。章立てが存在せず、二人の生活をただ淡々と切り取ってきたかのような区分の仕方は、壮年と少年が目撃しかつ行うことの明晰さに比べてぼやけてはっきりせず、その中に虚偽が混じっていても有り得そうです。明確な名前、明確な空間、明確な時間がどこにも存在しない此処とは、順序がバラバラな生き様をただ持ってきては適当な基準で繋げ合わせたようであり、間々にいくらでも別な代物を挿入できそうな文体とも成り得ます。線や面ではなく点と点の集合体。しかし一つの点はただただ深く暗く見えて、覗きこむ側の正気や理解を揺さぶりにかかります。小さな穴の奥底に見える黒雲はその他全てを幽閉し、点の中で蠢く二人の心そのものが馬鹿馬鹿しい冗談のように思えるほど。

 また二人に名前がなく、出会う人々(殆どが狂人か食人鬼になりました)もほぼ名を語らない事からは、この本が父と息子の物語のようでありながらも群体が形作る曖昧な群像劇のようにも思わせます。ぶわぶわと水を浴びて膨れ上がった本のように、人の枠を持ちながら、人から随分と離れた者たちによる饗宴。人という名を持ったおかしな人形たち。かつて内蔵だったものを位置や機能を組み替えた異形保管器。こうした取り留めの無さとまとまりのなさを考えると、訳者あとがきにもある『原型的・神話的な物語』であるという名称がこの本には合致しているのかもしれません。

 この書籍にはページがあり紙面があり、つまり物理上は始まりと終わりがあります。しかし見ていると、本当の語り部というのは幾らでも好きなところへと飛んで行き、その奔放さには終わりなどないのではないか。一人から語り部=物語の中心が離れたとしても、また別の一人、また別に、また別の……というように、やたらめったら動きまわっては、どこまでも曖昧で永続性を持っていくように見えます。つまり終末の物語でありながら終わりを持たず、いつまでも死んでいく過程と見せつけられるように思えるのです。人が死んで腐ったとして、空気中に残った名残がどうなるのか、人を食った虫がどこに行き、どのように死んでいくのか。鳥は、木は、土は――。

 気味の悪さを加速させる点として、例え人類が一人残らず地球上から消滅し、動植物すら灰と化してどこか遠くに巻き上げられていったとしても、語り部は残った部分にだけ憑依することで、大地や地球や宇宙が崩れていく語りを継続させられるのではないかという物があります。土、灰、大気、もしくは天国の視点から(個人的なフィーリングですが、この世界の天国はおそらく人口密集のせいで圧壊寸前か、もしくは最初から腐っているような気がします)。

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)


ということで、今年の日記もこれが終いとなることでしょう。
また来年も、宜しくお願い致します。